パリー東京100時間飛行への挑戦


実行委員会メンバー

最高顧問

木寺昌人(元駐仏日本大使)

会長

鈴木真二(東京大学名誉教授、特任教授)

副会長

青木裕子(軽井沢朗読館館長 元NHK)

Polak Christian(株式会社セリク代表取締役社長)

事務局長

渡辺昌俊(笹川日仏財団理事)

監事

荒山彰久(航空史研究家、元航空ジャーナリスト協会常任理事)

鈴木明治(元朝日新聞社航空部部長)

執行委員

柳沢光二(航空ジャーナリスト)

吉田正克(日本学生航空連盟 前専務理事)

委員

馬場憲治(有限会社馬場ボディ 代表取締役)

Bonaud Guy(サフラン社代表 日本担当)

深尾精一(東京都立大学都市環境学部 名誉教授)

福岡日仏協会

藤野 満(航空ジャーナリスト協会 会員 元川崎重工業)

古川 康(衆議院議員 元佐賀県知事)

権藤千秋(児童文学作家)

羽中田実(航空宇宙工業会 国際部長)

平田英俊(元航空自衛隊 航空教育集団司令官 空将)

石橋達朗(九州大学 総長)(発起人のみ)

Irrmann Jules(在京都フランス総領事)

苅田重賀(日本航空協会 航空遺産継承基金事務局 専任部長)

木村ジェニー(アンドレ・ジャピー 親族)

木村勇気(北海道大学 准教授 アンドレ・ジャピー 親族)

前地昌道(朝日新聞社 航空部長)

岡山慶子(株式会社朝日エル会長)

佐賀日仏協会

高樹のぶ子(作家)

竹田 寛(桑名市総合医療センター 理事長)

下平幸二 (元防衛省情報本部長 空将 在仏防衛駐在官(1994-97))

戸谷俊介 (株式会社プロドローン代表取締役社長 フレンチブルーミーティング 実行委員会代表幹事)

(2024年3月01日現在)



連載コラム

飛べ!赤い翼

(2022年11月 権藤千秋)

「飛べ!赤い翼」(1991年発行)は、ジャピーが墜落した際、救助した背振の人々や手当をした牛島医師を直接訪ね、五年かけてまとめたノンフィクションです。地元の人はもちろん、飛行機ジャーナリストの井田氏やNHKチーフアナウンサーの川上裕之氏にもお会いして史実を確認しました。ジャピーのその後を確かめるため、外交官のシムさんを通して当時のジャピーが掲載されている新聞を全て取り寄せ、和訳を依頼しました。漸く上梓した本を当時新日鉄常務取締役で頻繁に渡欧していた弟が、仏側に謹呈しました。遭難六十周年には、背振とボークールで姉妹締結が結ばれ、千秋も弟も招待されました。その後、交流は停滞していましたが、遭難八十年を記念して 「飛べ!赤い翼」は仏訳され、地元のサントルA小学校の副読本になりました。権藤家が訪ねると日本の旗を振って歓迎してくださいました。ボークールには背振ロードや神埼ロータリーがあり、中央には日本庭園があり、日本の旗が常時掲揚されています。

四年前(2018年)、権藤家がボークールを訪ねた時は、「赤い翼(コードローンシムーン機)」がほとんど復元されていました。「出来上がったら必ずお乗せしますよ」と復元協会のステファン・ランテール氏や、ジャピーの縁戚ニコラ・ジャピー氏に優しく声をかけていただきました。しかし、ジャピーの夢であった「仏日を飛ぶ」実現には三つの困難があります。①コロナ禍で、国と国との行き来やイベント等が開催できないこと、②航空法が変わり、軽量の飛行機は、決められた高度と区間しか飛べないこと、③応援していただく皆さんの存在 です。アンドレ・ジャピー氏は、自分の失敗を生かして日本の神風号の飛行士二名(飯沼・塚越)に乱気流等を切り抜けるこつを伝えています。

その助言のおかげで、日本の二人は、日仏の飛行に成功したのです。

日仏をつなぐ88年間の希望をぜひ実現したいものです。

権藤千秋  長女順子


追記 11月19日は、ジャピー遭難の日ですので、毎年、前後の土日に背振の碑まで行ってジャピーさんと話すのが我が家の習慣です。今年は、雨模様の天気でしたが我が家の椿を手折って持って行きました。ちょうど遭難の日のように視界が悪かったので、追体験できました。 2022年11月24日 権藤順子


偶然の出会い

(2022年8月 ジェニー木村)

2012年6月9日、青木裕子さんと共にボークールへ行く。当時のボークール市長、現在国会議員で日仏議員連盟副会長のセドリック・ペラン氏と3人で


1973年10月1日、名古屋で、私の日本生活が始まった。もちろん、ヨーロッパの国ではないが、それでも人々が働き、日常生活の困難に直面している国であることに変わりはなかった。

私は、当時唯一の地下鉄東山線に近い本山で、鉄の階段のある小さな2階建6部屋のワンルームマンションて暮らしていました。入って右側にはシンクとガスコンロ、左側にはドアと洋服ダンスがありました。好奇心いっぱいでドアを開けると、奥行き70センチほどの黒っぽい木製の四角い小さな「お風呂」(若かった私でも、ちょっと高かった!)、その右にトイレがありました。

実際、当時はマット(畳)の上で生活し、浴槽やトイレなどが低いためか、一般の人と比べて背が高いように感じていたんです。 

ゆで卵を作ろうとして、塩を買っていないことに気づきました。壁の向こう側で夕飯の支度をしている隣人の声が聞こえてきたので、「ちょっと頂戴」とお願いすることにした。彼女はドアを開け、私の姿に驚きながらも歓迎し、口元に温かい笑みを浮かべ、とても興味を持ってくれた。私は片言、片言の日本語を試したが駄目だった。それでも何とか理解しあい、その日から友達になった。 (一人暮らしで、必要なものが少なく、屋根があって、食べるものがあって、健康であれば、幸せだったのです)。

数日後、ダンボールの上でひざまづいてラーメンを食べていると、彼女が訪ねてきた。彼女は私の即席のテーブルにとても驚き、翌日、仕事帰りに小さな折りたたみ式のコーヒーテーブルを買ってきてくれたので、お礼に、彼女は知らなかったが好きだったクレープシュゼットを食べに誘ったのである。

   

彼女こそが東京のテレビ局NHKの名古屋支局にプレゼンターとして勤務していた青木裕子(あおきゆうこ)さん。


A fortuitous encounter

 

 

Since the first of October1973, my Japanese life began in Nagoya. Of course, it wasn't an European country but nevertheless, just a country where people worked and faced the difficulties of everyday life.

I lived in Motoyama, near the Higashiyama subway line (the only one at that time), in a two-storey building, with an iron staircase, containing six one-room dwellings. Upon entering, I saw a room with on the right a sink and a (camping) gas stove and on the left a door and a closet. Full of curiosity, I opened the door and found a small dark bathtub made of wood, square and about 70 cm deep, (I was young but I found it a bit high!), and on the right a toilet.

In fact at the time, the people around me felt small but maybe they needed to be because they were living on mats and the furniture, toilet etc...were low.

I started to boil an egg when I realized I hadn't bought any salt! I could hear my neighbour next door, preparing her own meal and decided to ask her if she could give me some salt. When she opened her door, she was surprised but welcoming, open-hearted and very interested. We couldn't speak each other's language but it didn't matter, we communicated and from that day on we formed a friendship. 

As I was living alone and had few needs, I didn’t think anything of kneeling on the floor or using a cardboard box as a table, eating lamen (noodle in a clear soup), but when she visited me the first time, she was so astonished, that the next day while she was coming back from work, she bought and gave me a low very practical folding table. To thank her, I made some suzette pancakes and she liked them.

   

She was working for Tokyo's network TV, NHK at Nagoya's branch as an announcer, her name is AOKI YUKO.


Une rencontre fortuite

 

 

Depuis le premier octobre 1973 à Nagoya, ma vie à la japonaise a  commencé.    Bien sûr, ce n'était pas un pays européen mais néamoins juste un pays où les gens travaillent et font face aux difficultés de la vie quotidienne.

J'habitais à Motoyama, près de la ligne de métro Higashiyama (la seule à l'époque), dans un petit immeuble de deux étages avec un escalier en fer, contenant  six logements  d'une pièce. En entrant, sur la droite il y avait un évier et un réchaud à gaz et à gauche une porte et un placard. Pleine de curiosité, j'ai ouvert la porte et trouvé une petite  "baignoire" sombre, en bois, carrée et d'environ 70 cm de profondeur (j'étais jeune, mais c'était un  peu haut!) et  à droite les toilettes.

En fait à l'époque j'avais l'impression d'être grande par rapport à la population, peut-être parce qu'ils vivaient sur des nattes (tatamis) et que les meubes, toilettes et autres étaient bas.  

Je commençais à bouillir un oeuf lorsque j'ai réalisé que j' avais oublier d' ache-té du sel. J'entendais ma voisine de l'autre côté du mur qui préparait également son  repas du soir, et décidais de lui demander si elle pouvait m'en donner. Elle ouvrit sa porte, surprise de me voir, mais accueillante, un sourire chaleureux aux lèvres et très intéressée. J'ai essayé une ou deux langues mais sans succès; malgré cela nous avons quand même réussi à nous comprendre et depuis ce jour là nous sommes devenues des amies.

  Je vivais seule, avec peu de besoins, tant que j'avais un toit, à manger, et étais en bonne santé, j'étais contente.

Quelques jours plus tard, alors que j'étais agenouillée en train de manger un "lamen", (des nouilles dans un consommé), posé sur une boîte en carton,  elle est venue me rendre visite. Elle a été ébahie en voyant ma table improvisée si bien que le lendemain, en rentrant de son travail, elle m'a acheté une  petite table basse,  pliante et pour la remercier je l'ai invitée à manger des crêpes Suzette qu'elle ne connaissait pas, mais qu'elle a aimé. 

   

Elle travaillait pour la chaîne de télévision de Tokyo, NHK, à la succursale de Nagoya, comme présentatrice, son nom est  YUKO AOKI


 



アンドレ・ジャピーとジェニーさんと私

(2022年7月 青木裕子)

2012年6月9日、朗読劇『アンドレの翼』を書くために、ジャピー家の一族である木村ジェニーと共にボークールへ取材旅行に行く。市のシンボル、鉄のオブジェの前で当時のボークール市長、現在国会議員で日仏議員連盟副会長のセドリック・ペラン氏(右の男性)と3人で

昭和48年というから今から49年前、NHKの新人アナウンサーだった私が最初に勤めたのは名古屋放送局で、たしか初夏のころだった。私はアパートを借りてひとり暮らしを始めたばかり。ほぼ時を同じくして隣の部屋に越してきたのが木村ジェニーさんだった。ジェニーさんは日本人の男性と結婚しようと思って日本にやってきたのだが、今のご主人木村氏のご両親は青い目のフィアンセにびっくりするばかり、結婚に至ったのが半年後となった。その間私とジェニーさんは言葉が通じないながらも、楽しい時間を共に過ごすことになる。


その友情は私が東京に転勤してからもずっと続いて、私の定年退職の時期が近づいてきたある日、ジェニーさんから電話がかかってきて、とっておきの話だと言って打ち明けてくれた。自分よりひとつかふたつ世代が前の親戚に、日本にやってきた飛行機乗りがいるようだ。自分は子どもの頃ちょっと聞いただけで今の今まで忘れていたが、夫が調べてみるとアンドレ・ジャピーという人物らしい。パリー東京を100時間以内で飛ぶ懸賞飛行に参加して、あと一歩というところで佐賀県と福岡県の境にある脊振山に落っこちた。佐賀側、背振(現神埼市)の村人総出の救出で一命をとりとめ、その後日本とフランスの航空関連で、大きな架け橋になったらしい。裕子さんは話をするのが仕事だから、これから二人でヨーロッパに行ってアンドレ・ジャピーのことを調べて、裕子さんはそれを台本に書いて、みんなに読んできかせるといい、ということなのだ。寝耳に水とはこのこと、その時はほんとうに驚いた。


かくして私とジェニーさんは2012年6月、フランスのボークールにアンドレ・ジャピーのことを調べに出かけることになった、首尾よく下調べができたら台本を書こうと誓い合って。最初に取材に訪れたのがジャピー家の本拠地であるボークールで、あたたかく出迎えてくれたのがまだ30歳代だったセドリック・ペラン市長。いまは国会議員となって、日仏議員連盟の副会長だ。ジェニーさんと私は若いペラン市長に案内してもらってアンドレ・ジャピーの育ったボークールをくまなく歩き回った。

 

ボークールはジャピー家の城下町ともいえるところで、そもそもフランスは200ばかりの古い家系が連綿と続いていてフランスの経済や政治、文化をいまだに支えているのだといわれるが、そのひとつがジャピー家であり、ボークールはかつては機械工業で盛んな町だった。タイプライターやいろいろな工業製品が世界を席巻した時代もある。全盛期には13のジャピー一族のお城を含め、大富豪のジャピー一族が町のためにありとあらゆる文化施設を作ったそうで、たいへん賑やかな都市だったそうだ。ジェニーさんのお母さんはそのお城のひとつで育った。アンドレ・ジャピーも13のうちの別のお城のひとつで育った。なんだか夢のような話。


ジェニーさんと私はその後調査をパリに移して、アンドレ・ジャピーのお墓に行ったり、教会を訪ねたりして日本に帰り、首尾よく「アンドレの翼」という台本を完成させた。それを2013年9月、パリの日本文化会館とボークールのジョルジュブラッサンス会館で上演しようと企てたのだが、資金が伴わない。そこで笹川日仏財団に支援を申し込んだのだが、まったく実績のない我々に助成金を出してくれるなんて有りえないと諦めかけていたところ、それに目を付けたのが渡辺昌俊さんだったのだ。渡辺さんは笹川日仏財団の日本側の理事で、ニコラ・ジャピーとは昔から懇意の仲、この台本の主人公がニコラ・ジャピーの大叔父であることに驚いたそうだ。つまり、ジェニーさんの母方のひいおじいさんがアンドレ・ジャピーの兄弟で、ニコラ・ジャピーもそこから来ている。


 渡辺さんにめぐりあったおかげで「アンドレの翼」のフランス公演旅行は大成功を収め、フランスだけで終わらせるのは勿体無いという友人たちの声で2014年は日本国内11ヶ所で凱旋公演をおこなった。どこも満席の大盛況で特にアンドレ・ジャピーが救出されてその後4カ月間入院していた九州大学医学部の「百年記念講堂」で上演された時は医学部の学長が「この講堂にこんなに人が入ったのを初めて見た」と驚いたくらい、その年は日本各地で話題になったのだが、その後この話は神崎市とボークールの姉妹都市交流として受け継がれ、ジェニーさんと私の個人的ストーリーから離れて未来に続いて行くものと思っていた矢先、飛行機が復元されて目の前に現れるのが現実味をおびてきて、またまた、上演のチャンスがありそうでわくわくしている。二人の出会いの不思議が単なる偶然とは思えなくなっている。つくづくアンドレ・ジャピーと背振の村の人たちの残したものの大きさに驚いている。


赤い翼の事始め

(2022年4月 渡辺昌俊)

長い銀行員生活が終わったとき取引先のフランス企業から頼まれて同社の顧問を引き受けた。その会社の副社長の一人が ニ コラ・ジャピーだった。彼とは 普段はメールや電話でやりとりしていたが大事な商談になると日本にやって来た。20年以上の昔の話である。或る日仕事の合間に浅草の浅草寺の境内を散策していた時、突然雲一つない青空 を一機の飛行機が飛び去って行った。その時彼が話 し 始めたのが大叔父アンドレ・ジャピーの遭難物語であった。

当時は特別の感慨も覚えず聞き流していたが、それから10年ほど経ったころ笹川日仏財団の理事会に朗読劇“アンドレの翼”という案件が上程されたとき 、申請書を一読して ニ コラの話を思い出し、この奇遇を直ちに彼に知らせた。“アンドレの翼”の主宰者は赤い翼実行委員会の副会長 青木裕子さん であるが、 アンドレ・ジャピーに纏わる日仏友情物語を朗読舞台に仕立て 2013年にフランスのパリとボークールで、2014年には神埼市はじめ日本各地で上演するという企画であ った 。

ニコラは公演スケジュールに合わせて、ボークールと神埼にはぜひ行き たいので手助けして欲しいと言ってきた。私もその気になって2013年にボークールに行く準備をしていたが、その頃健康が すぐれず、ドクターストップがかかりドタキャンしてしまった。2014年には偶々 日本の外務省により日仏姉妹都市会議が開催され、ボークール市長一行も それに 参加 、会議後、 神埼市を訪問 ことにな ったが 、 それに合わせてニ コラも夫人とご子息同伴 で来日することになった。

アンドレの遭難後、80年近く経って初めて墜落現場を肉親が訪れたのである。背振山頂に近い急斜面の雑木の中に石碑が立てられ花も供えてあったが、その 前にニコラがひざまずき祈る姿は感動的で私には忘れられない光景となった。 一方、青木さんの ”アンドレの翼“の公演はジャピー家とボークール市長ご一行の参加で大いに盛り上がったことは言うまでもない。 また神埼市の 歓迎は熱烈で両市長の会談は 弾み、市民有志の案内で地元小学校を訪問、そこで将来の交流を話し合った。 アンドレが九死に一生を得て祖国に戻れたのは地元の救助の賜物であり ニ コラの感謝の念 が 一気に高まった ことは想像に難くない 。

帰国後、ニコラからの御礼のメールの中に、フランスでアンドレ・ジャピー機と同型の赤い翼のコードロン・シムーンが復元されつつあり、完成したら、日本に飛行させ背振の人々にその雄姿を見せたいと書いてあった。2014年11月のことである。(写真は左がニコラ・ジャピー、中央がステファン・ランテール(コードロン・シムーン復元協会会長)、右から2人目が渡辺です)

フランス実行委員の来日(2023.4)

国内実行委員との懇親会

国土交通省訪問

国土交通省記者クラブでの記者発表

神埼市の訪問

アンドレ・ジャピー遭難の碑

佐賀県庁での記者発表

佐賀県知事訪問

朝日新聞社訪問

神埼市の訪問

神埼市の訪問

神埼市の訪問

所沢航空発祥記念館での展示(2023.7.28)

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岐阜かかみがはら航空宇宙博物館企画展「くらべる・つながる 日仏航空ヒストリー」での展示(2023.7.22-10/29)

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[https://twitter.com/SORAHAKU324/status/1681942580043599877]

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