パリー東京100時間飛行への挑戦
パリー東京100時間飛行への挑戦
最高顧問
木寺昌人(元駐仏日本大使)
会長
鈴木真二(東京大学名誉教授、特任教授)
副会長
青木裕子(軽井沢朗読館館長 元NHK)
Polak Christian(株式会社セリク代表取締役社長)
事務局長
渡辺昌俊(笹川日仏財団理事)
監事
荒山彰久(航空史研究家、元航空ジャーナリスト協会常任理事)
鈴木明治(元朝日新聞社航空部部長)
執行委員
柳沢光二(航空ジャーナリスト)
吉田正克(日本学生航空連盟 前専務理事)
委員
馬場憲治(有限会社馬場ボディ 代表取締役)
Bonaud Guy(サフラン社代表 日本担当)
深尾精一(東京都立大学都市環境学部 名誉教授)
福岡日仏協会
藤野 満(航空ジャーナリスト協会 会員 元川崎重工業)
古川 康(衆議院議員 元佐賀県知事)
権藤千秋(児童文学作家)
羽中田実(航空宇宙工業会 国際部長)
平田英俊(元航空自衛隊 航空教育集団司令官 空将)
石橋達朗(九州大学 総長)(発起人のみ)
Irrmann Jules(在京都フランス総領事)
苅田重賀(日本航空協会 航空遺産継承基金事務局 専任部長)
木村ジェニー(アンドレ・ジャピー 親族)
木村勇気(北海道大学 准教授 アンドレ・ジャピー 親族)
前地昌道(朝日新聞社 航空部長)
岡山慶子(株式会社朝日エル会長)
佐賀日仏協会
高樹のぶ子(作家)
竹田 寛(桑名市総合医療センター 理事長)
下平幸二 (元防衛省情報本部長 空将 在仏防衛駐在官(1994-97))
戸谷俊介 (株式会社プロドローン代表取締役社長 フレンチブルーミーティング 実行委員会代表幹事)
中野幸紀 (関西学院大学イノベーション・システム研究センター 客員研究員、合同会社ジフティク 代表)
溝上員章 (株式会社 日本エイピーアイ 代表取締役)
岡真理子 (アンドレの翼 実行委員長 元パリ日本文化会館副館長)
山川秀宏 (豊富産業株式会社 航空機リサイクル事業部 部長)
(2024年12月27日現在)
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はじめに(自己紹介を兼ねて)
「赤い翼」パリ・東京プロジェクトの監事を務めている荒山です。私は航空史、ことに戦前の日本航空史を研究していますが、このプロジェクトになぜ参加し、この記事を書くに至ったか、自己紹介を兼ねて記してみます。中学時代に航空機に興味をもち、東京都立航空工業高校(現・都立産業技術高専)を卒業し航空機の設計家を夢みたのですが、途中で歴史に興味が移り、大学(中大)、大学院(早大)で現代史・政治史・軍事史を学びました。本職は大学職員(早大、最終職場は政治経済学部・大学院政研・経研事務長)で、中高校講師(早実など)を経験しながら航空機は趣味としていました。50代後半に航空ジャーナリスト協会に入会し、これを機に航空史の研究家を志し、職場を選択定年で退職、大学院で科目等履修生(かつての聴講生)として「大正期の軍事航空」を研究発表しました。その後雑誌などに寄稿して現在に至っています。早稲田大学出版部から「日本の空のパイオニアたち」を出版し、共著として「霞会館150年史」に『華族と航空』の分野を担当しています。雑誌「航空情報」に『戦略爆撃機と戦略爆撃の歴史(25回連載)』『航空史発掘(60回)』『新航空史発掘(27回)』『航空史を歩く(17回)』等の連載記事を、2005(平成17)年以降最近まで掲載しました。
日本航空史以外に、フランス航空教育団来日100周年記念に刊行された、クリスチャン・ポラック氏と鈴木真二先生編著「日仏航空関係史」(東京大学出版会刊)に日仏航空関係史の論文を書き、この関係から「赤い翼」パリ・東京プロジェクトに参加、この記事を書く機会を戴いた次第です。本稿を2回に分けて掲載します。
1.気球・飛行船・グライダーの日仏航空交流
航空機を分類すると、気球、飛行船、グライダー、飛行機、ヘリコプターなどに分けられ、ほぼこの順序で開発されている。このうち気球と飛行船、およびペリコプターの初飛行は、フランス人によるものであった。
気球は1783(天明3)年11月21日、モンゴルフェ兄弟が製作した熱気球が人類初の飛行を行い、その10日後の12月1日に、水素ガス気球が飛行に成功している。このガス気球について取り上げた森島中良の「紅毛雑話」が、日本で発行された最初のフランス航空機に関する文献である。その後気球については、ガブリエル・ヨーン社の気球を日本陸軍が購入している。また飛行船については、アンリ・ジファールが1852(嘉永5)年に初飛行しており、日本では時代を大分過ぎた1923(大正12)年、海軍がニューポール・アストラ社からアストラ・トーレ飛行船を購入し、霞ヶ浦飛行場を基地としていた。
グライダーについての日仏交流は、1909(明治42)年11∼12月に在日フランス大使館付武官ル・プリウール大尉が自費でグライダーを製作し、飛行に成功している。この製作には相原四郎海軍大尉が個人的に支援し、日本の竹などを使用して製作された。飛行は上野不忍池畔で行われ、相原も飛行を試みたが失敗している。実際に行われた最初の日仏航空交流であるが、個人的な交流であった。
2.フランスの航空発展と臨時軍用気球研究会の設立
人類が飛行機で初飛行に成功したのは、アメリカ人ライト兄弟によるもので、1903(明治36)年12月17日である。しかし、ライト兄弟が特許も絡んで飛行を秘密にしていたため、飛行機の本格的な発達を見たのは、フランスを初めとするヨーロッパであった。
1906(明治39)年9月に、フランス系ブラジル人サントス・デュモンが14bisで7m飛行しており、これが世界最初の飛行機の初飛行と考えられたほどであった。その後フランスでは1909(明治42)年7月ブレリオが英仏海峡を横断飛行し、また同年12月にはランスで初の国際航空ショーが開催されている。日露戦争(1904∼5・明治37~38年)で勝利した日本人の多くが、渡欧・渡米してこうした状況を目撃しており、とくに陸海軍軍人が航空の研究の必要性を説いて、それぞれ陸海軍の上司に上申している。
こうして1909年7月、臨時軍用気球研究会が陸海軍大臣のもとで設立された。陸軍6人、海軍4人、民間人3人で構成され、陸軍内に陸軍中将長岡外史を会長とし、飛行船と飛行機、航空気象を含む、航空全般を研究・実施すら最初の機関である。
このように日本での航空は、臨時軍用気球研究会が航空の中心になって行われ、そのなかでも軍、ことに陸軍が中心であった。欧米では民間人が飛行機を設計・製作して飛行を楽しみ、軍がそのなかから必要な機体を選択している。航空の世界で後塵を拝した日本は、欧米に追い付こうとして採った政策であったが、黎明期から軍中心の航空であったわけである。
3.徳川好敏とフランス
臨時軍用気球研究会は飛行機の所有や飛行場の設置、パイロットの養成などを最優先課題として掲げ、フランスとドイツから機体を購入することを決めた。このためフランスに出張したのが徳川好敏陸軍大尉で、ドイツには日野熊蔵陸軍大尉が当たった。徳川はアンリ・ファルマン飛行学校に学び、日本人初の万国飛行免状を取得して、アンリ・ファルマン複葉機とブレリオ単葉機を、日野はドイツ機などを購入して帰国する。1911(明治43)年12月19日代々木練兵場で、徳川は持ち帰ったアンリ・ファルマン複葉機で日本人による飛行機の初飛行に成功している。飛行距離3,000m、高度70m、時間3分間であった。ただし、日野が14日に非公式に初飛行していた。その後徳川は開場した所沢陸軍飛行場で、アンリ・ファルマン複葉機やブレリオ単葉機によって初の同乗者を乗せての飛行や、都内への往復飛行などを行い、日ごとに飛行距離や高度、速度を更新している。また徳川は、機体の増加を考慮して、アンリ・ファルマン複葉機を改造した(臨時軍用気球研究)会式一号から会式四号までの機体を製作している。こうした機体による新人パイロットの養成で、大正2(1913)年6月には5人のパイロットが誕生する。このうち澤田秀と長澤賢二郎の両中尉は、徳川・日野に次いでフランスへ赴き、操縦訓練を受けるとともに、モーリス・ファルマン複葉機1機とニューポール単葉機2機を購入してくるのである。
4.海軍航空とフランス
他方海軍は、金子養三大尉がフランスへ出張し、万国飛行免状を徳川と後述する滋野清武に続く3番目として取得した。モナコで行われた水上機の飛行大会を見学して海軍航空の重要性を認識し、モーリス・ファルマン小型水上機を2機購入して帰国している。当時海軍内では陸軍主導の臨時軍用気球研究会に疑問が出ており、明治45(1912)年6月海軍は臨時軍用気球研究会とは別に、独自の海軍航空術研究委員会を設立する。そしてこの年11月新設の追浜飛行場で金子がモーリス・ファルマン小型水上機で高度30m、15分間の初飛行に成功、海軍航空の存在を国民に知らしめたのである。なおほぼ同時に河野三吉大尉も、アメリカのカーチス水上機で飛んでいる。大正3(1924)年8月に第一次世界大戦が勃発すると、日本はドイツに宣戦布告、中国のドイツ領青島(チンタオ)を攻略し、海軍航空隊は当初モーリス・ファルマン小型水上機(70馬力)3機と大型機(100馬力)1機の4機を配属した。陸軍はモ式複葉機4機とニューポール単葉機1機の5機配属、陸海軍機ともフランス製機であった。この戦役で初めて、陸海軍航空隊は偵察、射撃、爆撃等の初歩的な実戦を経験するのである。
5.フランスの滋野清武と7人の日本人志願パイロット
滋野は1882(明治15)年生まれで若くして家督(華族)を継ぎ、陸軍幼年学校に進んだが馴染めず、中退して音楽学校を卒業している。卒業後子爵の娘和香子と結婚するが死去したため渡仏、ヴォアザン飛行学校等に通い、徳川に次ぐ日本人2番目の万国飛行免状を取得した。フランス人技師の指導により妻の名をとった「わか鳥」号を製作、初飛行を行ったのち日本に持ち帰って、所沢陸軍飛行場で飛行している。1914(大正3)年に再度渡仏し、フランス陸軍航空隊に入隊、バロン滋野と呼ばれのちに大尉として遇された。1915年5月にV24中隊に配属され、レジオン・ドヌール勲章を受章する。その後強力なN26 こうのとり(シゴーニュ)中隊に移動、ここで有名なパイロット、ジョルジュ・ギンヌメールと会っている。最後に最新鋭戦闘機スパッドS7を操縦、敵機を6~8機撃墜してアス(エース、5機以上の撃墜王)となっている。当地で仏人女性と結婚、帰国後は航空路開設を試みたが認められなかった。大正13(1924)年パリから飛来した在仏時同僚のドアジ―大尉を、仏軍服を着用して出迎え旧交を温めたが、これが公の場での最期であった。滋野は在仏中、多くの日本人パイロットの面倒をみたばかりでなく、日本の文化人とも接して、日仏交流に大きな足跡を残している。
日本人でフランスの陸軍航空隊に入隊した義勇パイロットは、滋野を含めて8人いた。帝国飛行協会(現・日本航空協会)の前身日本飛行協会の設立者である磯部鈇(おの)吉は、当地で不時着入院して滋野の見舞いを受けている。小林祝之助はドイツ航空隊との激しい空戦で戦死し、仏陸軍葬で葬られた。アメリカで操縦を学び、フランス陸軍航空隊に志願したパイロットが3人いた。茂呂五六は飛行機の輸送や試験飛行に従事し、戦後は川崎造船所飛行機部で活躍する。武市正俊は当初茂呂と同じ学校で学んだが、搭乗機が離陸時に機体が傾いて墜落死亡、当地の墓地に葬られている。山中忠雄もスパッド戦闘機に搭乗したが発動機の故障で墜落、死亡した。そのほか、のちに帝国飛行協会の飛行大会で活躍する石橋勝浪、また汽船の乗組員であった馬詰駿太郎は、高齢で偵察飛行などを行う飛行隊に所属している。
この志願兵パイロット8人のみが、第一次世界大戦の欧州で、本格的に行われた航空戦に対して実戦経験をした日本人であった。
6.航空改革とフランス機
大正6(1917)年1月、陸軍航空隊は滋賀県における特別大演習で、所沢から出発したモ式六型14機が、1機も予定通り目的地に到着出来なかったという事件が起こった。発動機の不調が原因であったが、これを機に運輸部本部長井上幾太郎少将が陸軍航空の抜本的な改革を行っている。1919(大正8)年4月、臨時軍用気球研究会や交通兵団を解散して航空部と航空学校を創設、陸軍省内に航空課を設置した。そして井上が航空部の本部長に就任するのである。
また、1915(大正4)年に所沢に設立された実戦部隊である航空大隊は、のちに航空第1大隊と第2大隊に拡大され、1918(大正7)年に航空第2大隊が、翌々年には航空第1大隊がいずれも岐阜県各務ヶ原飛行場に移転している。なお、こうした航空の拡大が、歩兵や騎兵、砲兵などと同列となる航空兵科の創設となるが、それは1925(大正14)年のことである。
飛行機についてはモ式六型に依存しないために、制式一号と二号などの国産機が製造されたが、満足な性能を得られず、イギリスからアブロ504練習機やソッピース・パップ戦闘機などを購入していた。さらに充実させるため、フランスのニューポールN24とスパッドS 7を試験的に購入、この機体を中心に以後フランス機で覆われることになる。すなわち、フランス航空教育団の来日によって、陸軍航空の近代化がさらに充実されるのである。来日は第一次世界大戦が終結した翌年の、1919(大正8)年1月のことである。 (つづく)
註・参考文献は次回に記す。
著者紹介
荒 山 彰 久(あらやま・あきひさ)
航空史研究家 (元)航空ジャーナリスト協会常任理事
著書:「日本の空のパイオニアたちー明治・大正18年間の航空開拓史ー」早稲田大学出版部、2013年刊
共著: クリスチャン・ポラック、鈴木真二編著「日仏航空関係史ーフォール大佐の航空教育団来日百年ー」東京大学出版会、2019年刊
「霞会館150年史(「華族と航空」担当)」霞会館、2024年刊
“佐賀から東京へ 赤い翼 1936 PARIS/TOKYO 未完の夢、世紀を超えて実現へ“
という日仏合同民間ベースによる航空を通じての文化交流事業が進められている。本事業の広報チラシは以下のように述べている。
“1936年11月、フランスの飛行士アンドレ・ジャピーによるパリ―東京100時間飛行への挑戦は達成目前の佐賀県・背振山で悪天候に阻まれ、未完に終わりました。そして今、新たなる挑戦が進行中です。同型機を復元して佐賀から東京まで飛ばし、ジャピーが果たせなかった夢を完結させる「赤い翼」プロジェクトです。夢の実現に向けて、皆さまの篤いご支援をお願いします!“
現代の日本人の一般的な航空に関する知識、関心の対象は概ねアメリカであり航空自衛隊の装備システムも多くはアメリカ主体となっている。一方、今回の新戦闘機開発においては、当初はパートナーが米国となる計画であったが、紆余曲折を経て英伊に決まった。フランスと言えばヘリコプターか、最近ではJALによる大型エアバス導入が耳新しいと言ったところであろう。しかし、フランスは気球の発明、動力飛行船の開発、初期の航空機開発、航空をスポーツとして認識する国際航空連盟の創設、など航空に関する嘗ての最先進国であり、勿論我が国との関係も密接なものであった。そこで小文では、先ず日本とフランスの歴史的な背景を振り返り、黎明期の日本の航空関係での極めて深い繋がりについて検証し、その上で、この赤い翼プロジェクトの意義を考えたいと思う。
1.フランスとの近代外交史。
日本とフランスは、1858年(安政5年)に日仏修好通商条約を締結以来、両国の基幹産業である絹製品が取りもつ縁から、幕末から第一次大戦に至るまで、約60年間の親密な外交関係を維持した。当時の日本からフランスへの最大の輸出品は生糸であり、明治10年までフランスは日本の生糸総生産の80%を輸入する最大の外貨供給元であった。その間、徳川幕府はフランスから横須賀造船所建設、軍事技術顧問団を通じ、或いはエリート技術者招聘など近代的な先端技術移転を受けることに努力した。明治新政府も徳川幕府の敷いたこの路線を受け継ぎ数次に亘る軍事顧問団、海軍技師招聘により帝国陸海軍はフランスから制度、戦略戦術なども含めた各方面の技術移転を受けることになる。これは、近代技術を“工場化”しなかったフランスにとっても“技術輸出”による歳入増加方策として有益であった。従って、明治維新後の欧米による影響の主体がイギリスであると考えるのは誤りであることを認識する必要がある。これは、その後の日清戦争(明治27-28、1894-95)における海戦で活躍した帝国海軍の主力戦闘艦(三景艦として有名な松島、厳島、橋立3隻の装甲巡洋艦)がフランス人技師設計、2隻はフランス造船所建造、フランス製主砲搭載ということからも明らかである。イギリスとの密接な関係の構築は、その後に英国で建造され日露戦争時の日本海海戦などで武勲を挙げた戦艦三笠の導入等、さらに後代の出来事である。
1904―5(明治37―38)の日露戦争の勝利により日本が世界列強の仲間入りを果たすと欧州やアジアの様相は一変する。そしてフランスとも1907年に日仏協約を結びフランスは日本を相互的最恵国待遇に引き上げることに同意する。この様な日仏外交史関係の深化により、日本とフランスとの航空関係における夜明けが到来する 。
2.日本飛行機黎明期とフランスへの依存
1903年のライト兄弟による飛行機の世界初動力飛行の成功に続き、海外での航空技術の発展に後れを取らないように、日本では1909年に陸海軍監督下の“臨時軍用機気球研究会”が発足した。そして航空に関するあらゆる方面での研究活動を推進するとともに、1910年4月に陸軍から徳川好敏大尉をフランスに、日野熊蔵大尉をフランス経由でドイツに派遣する。彼らの使命は出来る限りの航空知識を学び、飛行技術を習得し、最新の飛行機を購入し持ち帰ることにあった。両大尉は、フランスのアンリ・ファルマン飛行学校に入校して(日野大尉はその後ドイツに移動)飛行訓練を受け、徳川大尉は購入したアンリ・ファルマン機(ブレリオ12型も同時に注文した)とともに帰国した。日野大尉は単身でドイツに移動しヨハネスタール飛行場で操縦技術を学び、グラーデ機を購入して帰国した。同年12月19日に飛行場として指定された代々木練兵場において、両大尉は日本初の動力付き飛行機による飛行に成功し日本中を沸かせた。その後も同時期に購入したブレリオ12型による飛行を行い、これらの動きに刺激を受けた日本の政界、軍部の指導者たちは航空技術の国家戦略的重要性を認識し始め、当時の飛行機最先進国であり外交関係も良好であったフランスに対して航空機材や技術などの支援を要請する。フランスもまた、日本をアジアにおける重要なパートナーと捉え日本の要求に応えた。さらに特筆すべき出来事は、1911年の英国キングジョージ5世戴冠式に参列される東伏見宮依仁殿下に随行した当時海軍軍令部部長で日露戦争時の名提督島村速雄中将(のち大将)が同行士官共々フランスのモーリス・ファルマン飛行学校を訪問したことである。そして、同中将は視察に留まらずモーリス・ファルマン校長自らが操縦する機体で同乗飛行を経験した。こうして航空への関心が高まる中、1914年に勃発した第1次世界大戦では、日本は日英同盟に基づきドイツに宣戦布告し、ドイツの東アジアにおける最大拠点である青島攻略に成功した。本作戦には陸海軍ともにモーリス・ファルマン機(海軍は水上機型、陸軍はニューポール機1機も追加)により参加し、手投げ爆弾等で攻撃も行ったことから、我が国が飛行機を初めて実戦に使用された事例として知られている。(なお、海軍は膠州湾を封鎖すると同時に南洋にも出動、赤道以北のサイパン島などのドイツ領南洋諸島を占領した。)これらの経験も含めて第1次世界大戦における飛行機の発達とその威力を日本の指導者たちは改めて認識することとなった。こうして日仏間の航空関係の繋がりは新しい局面を迎える。
3.フォール教育団来日とその影響
第一次世界大戦により日本政府は航空戦力の重要性を認識したが、同時に、機材、技術、運用などの面における問題が露呈したことから、我が国の実力が列強に比べて決定的に遅れていることを痛感した。このため、大規模な外国機購入と研修要員の海外派遣を決定し、航空では最も関係の深いフランスへ多数の飛行機購入を打診した。これに対してフランスは、ロシア革命後のシベリア出兵を日本に依頼した経緯や第1次大戦における日本の貢献などから、ジョルジュ クレマンソー首相がフランス製飛行機の大量購入を条件に、無償の教育団派遣を決定した。この決定に基づき、1919年初頭から1920年4月までの間、最大60名余の指導員が来日し、日本陸軍に航空技術など以下の内容を教育指導した。これがフォール教育団である。
第一次世界大戦により日本政府は航空戦力の重要性を認識したが、同時に、機材、技術、運用などの面における問題が露呈したことから、我が国の実力が列強に比べて決定的に遅れていることを痛感した。このため、大規模な外国機購入と研修要員の海外派遣を決定し、航空では最も関係の深いフランスへ多数の飛行機購入を打診した。これに対してフランスは、ロシア革命後のシベリア出兵を日本に依頼した経緯や第1次大戦における日本の貢献 などから、ジョルジュ クレマンソー首相がフランス製飛行機の大量購入を条件に、無償の教育団派遣を決定した。この決定に基づき、1919年初頭から1920年4月までの間、最大60名余の指導員が来日し、日本陸軍に航空技術など以下の内容を教育指導した。これがフォール教育団である。
派遣要員 フォール中佐を団長として操縦士、軍事技術者、航空機製造技術者、整備士
教育科目 飛行機操縦、戦闘法、偵察、無線通信、爆撃、機体製造、エンジン制作、水上機取り扱い、軍用鳩など多岐項目
使用機材(フランスより供給)サルムソン2A2偵察機、ニューポール24戦闘機、スパッドⅩⅢ戦闘機、ブレゲ―ⅩⅣ爆撃機、(その他日本にある機材を使用)
教育場所 所沢、各務ヶ原、浜名湖畔新居町、静岡県三方原、千葉県四街道(下志津)、熱田兵器製造所、東京砲兵工廠
その後、教育団の与えた間接的な効果としてフランス製航空機とエンジンのライセンス生産が行われるようになり、黎明期の日本航空機産業に大きな影響を与えた。ライセンス生産状況は、以下のとおりである。
川崎造船所 ―サルムソン2A2偵察機
三菱内燃機 ―ニューポール81E2 練習機、アンリオHD14E2 練習機、イスパノスイザ発動機 200HP,300HP
中島飛行機製作所 ― ニューポール83E2 戦闘機、ニューポーリ29C1戦闘機、
東京瓦斯電気工業 ― ル・ローヌ発動機 80HP,120HP
なお、海軍も講習を見学し大変感銘を受け、本格的に航空訓練の見直しを行う方針を固め海軍航空として先進国であった英国から教育団を招聘することとなり、1921年にセンピル大佐を団長とするセンピル飛行教育団の来日が実現した。
このように、フォール教育団は陸軍航空のみならず海軍航空にも大きな影響を与え、日本の軍事航空の飛躍的な発展の礎になったとして高く評価されている。フォール中佐は、その功績により勲三等旭日章、さらに後年、勲二等瑞宝章の叙勲を受けた。また、所沢飛行場(現在は所沢航空発祥記念公園)には彼の胸像が作られ、1928年12月に除幕式が行われ現在も顕彰されている。さらに、“フランス航空教育団来日100年記念式典が”、2019年4月7日に所沢航空発祥記念公園で行われ、航空自衛隊による祝賀展示飛行も行われた。
フランス政府も、フォール教育団の成功を認識し、日本におけるフランスの影響力と産業上の利点の観点から、その効果を持続させるため、1921年(大正10年)東京に駐在航空武官のポストを新設するとともに、その後も数次に亘る教育団の派遣を行った。また、フランスから招聘した技師の指導により、中島91式戦闘機や三菱92式偵察機などの開発へとつながった。しかし、次第に日本独自の航空技術の発展や日本の外交政策上の問題などからフランスとの関係は希薄となってゆく。
その後、第2次世界大戦を迎えるが、昭和16年12月8日の大東亜戦争開戦時には、ドイツによるフランス侵攻により当時の情勢から日本はフランスに宣戦布告をしていないことから、現代の日本人にとってフランスが“敵国”であったという認識は薄い。ただし、1944年8月29日にドイツの占領下から解放されたドゴール政権がパリで成立し、日本に宣戦布告をして以来は敵国となりサンフランシスコ平和条約にも戦勝国として日本の降伏文書に署名していることは承知している。つまり、この辺りの事情はなかなか複雑で外務省条約局第3課が1952年1月28日に作成した“日本フランス(及び仏領印度支那)間の戦争の始期における若干の問題について”に詳述されており、30数ページのその文書における“結論”に“日仏間の戦争状態は1944年8月29日に発生した。”との文言がある。但し戦時賠償などの問題もあり政府の公式見解とはなっていないと思われる。現実にはフランスは幕末より明治維新を経て100数十年間殆ど干戈を交えたことのない友好国として、文化の薫り高い憧れと親しみを以て接している。なお、2014年の日仏外務防衛閣僚会合(2+2)以降、日本との協力活動が増え、直近の話題としては、昨年秋に日仏航空史上初めての共同訓練であるミッション“ペガーズ23”が新田原基地で行われた。また、その記念としてフォール大佐教育団ゆかりの地である埼玉県所沢航空発祥記念館において、フランス大使館主催のレセプション及びセミナーが開催され、フランス側からはセトン駐日大使、ミルフランス航空宇宙軍参謀長など、航空自衛隊からは内倉航空幕僚長などの要人が参加した。また、共同訓練のために来日中のラファール戦闘機やエアバス400M輸送機に日本のF-15戦闘機なども加わって、会場上空を通過する祝賀飛行が行われた。さらに、昨春にはフランス領ポリネシアのタチヒからフランス海軍のフリゲート艦が横須賀に来航するなど、フランスとの交流が盛んになってきていることは日仏両国にとって好ましいことであろう 。
4.フランス航空局によるパリ―東京 100時間以内での懸賞飛行アナウンスとアンドレ・ ジャピーの挑戦
第一次大戦中から飛行機は飛躍的な進歩を遂げ、大戦終了後は民間用として益々発展の一途をたどった。エンジンの耐久性や機体性能の向上などにより、信頼性の高い飛行機が数多く生産され、フランスのコードローンシムーン、ラテエコール28、イギリスのプスモス、ドイツのユンカースF13、アメリカのロッキードベガなど数多くの名機が生まれた。特に欧米の飛行家達は競って、これらを愛機として“より高く、遠く、速く”飛ぶことに挑戦した。1926(昭和元年)から昭和10年(1936)頃までの彼らの足取りを少し辿っただけでも、アメリカのバード少佐による北極探検飛行、アメリカのリンドバーグによるニューヨーク―パリ間大西洋無着陸横断、フランスのジーン・メモルーズによるセネガル―ブラジル間南太平洋横断、ソ連のシェコタロフによるシベリア経由での立川飛来、オーストラリアのキングフォードスミスによるアメリカ西海岸からハワイを経由してオーストラリアへの南太平洋横断飛行、アメリカのポスト・ゲッティ―による8日間世界早回り記録、イギリスのエニ―・ジョンソン嬢によるシベリア経由での立川飛来、アメリカのリンドバーグ夫妻による北太平洋島伝いでの霞ヶ浦飛来、フランスのマリーズ・イルズ嬢による2度の日本飛来、アメリカのバック ホーンによる淋代海岸(三沢市)からシアトル近郷まで太平洋横断飛行、等々枚挙にいとまがない。
そのような国際航空界にあって、航空先進国の誇り高いフランス航空局は1936年に、1~3位に総額55万フラン(現在の貨幣価値で約9億円)の懸賞金を提供し、パリ―東京間を100時間以内で飛行するというエアレースの計画を発表し競技者を募った。そこで、この企画に最初に名乗り出たのがアンドレ・ジャピーであった。彼は、幾つかの長距離飛行を成功させた飛行家としての名声が高く、今回のエアレースには彼の愛機コードローンシムーン機に特注の燃料搭載用タンクを増設(最大航続距離4,500Kmに及ぶ)し、通信士などを乗せない単独飛行で挑戦することとなった。1936年11月16日にパリ郊外のル・ブルジェ空港を出発し最初の着陸地ダマスカス(飛行距離3,500Km)を経由し、カラチ(3,500Km)、アラハバット(1,500Km)、ハノイ(3,000Km)を経て、11月18日に香港まで約12,000Kmを実飛行時間僅か55時間24分で翔破した。最終目的地東京までわずか3,000Kmであり新記録樹立が有望視された。翌19日、航路上の悪天候が予想されたがジャピーは早朝に出発した。途中の上海までは中国大陸沿岸沿いに順調な飛行が続いたが、南シナ海に至ると天候が徐々に悪化し、東シナ海特有の視界不良のために海面を這うような低空飛行をせざるを得なかった。さらに、予想外に強い向かい風のために対地速度が出ず、数時間の悪戦苦闘の後、香港を出発して10数時間、漸く夕方近くに日本の九州陸地が視野に入るまでに辿り着いた。しかし、燃料や日没の関係もあり危険回避のために目的地を東京から九州雁ノ巣飛行場に変更する。そして雁ノ巣飛行場を目前にして突然の濃霧と乱気流に遭遇し、佐賀県神埼市の背振山標高900mの山中に激突、遭難という悲劇に遭う。その際、爆音と大きな衝突音を聞きつけて山中の現場に駆け付けた地元の炭焼きの人々に発見救出されたのは不幸中の幸いであった。ジャピーは重傷のために福岡の九州帝国大学病院に搬送されたが、一命をとりとめ、病院関係者をはじめ多くの人々の手厚い看護を受け全快した。なお、香港から遭難地点までの実飛行時間は20時間21分とされ、トータルの実飛行時間は75時間45分と計算されている。
ジャピーは、その翌年、帰国途上で東京に立ち寄り、当時計画中であった朝日新聞社の英国ジョージ6世戴冠式の取材を兼ねた東京―ロンドン都市間連絡飛行とそれによる国際速度記録に挑戦する飛行に搭乗員として指名を受けていた飯沼、塚越両飛行士を訪ね、最新の航空路の情報や自身の貴重な航路上の気象、無線通信などの経験を教示した。これはその年に決行され大成果を収めた“神風号”成功の一要因となったと称賛されている。また、アンドレ・ジャピーの記録挑戦飛行が最終的に遭難挫折の結果だけに終わらず、療養中に結ばれた絆は現在も続いており美しい物語の原点となっている。すなわち、1996年には、ボーク―ル市と背振/神崎の両市が姉妹都市提携を締結し、両市ではこの飛行を記念して定期的な会合、催しや隔年ごとの両市青少年の交換訪問など様々な取り組みを行い、航空が結ぶ日仏両国の文化交流という素晴らしい役目を果たしている。
ここで、アンドレ・ジャピーと愛機コードローンシムーン機の概要を紹介する。アンドレ・ジャピーは、1904年、パリ郊外のボーク―ル市の時計製造で成功した地方の名家に生まれ、飛行家として数々の記録飛行に成功し1938年に国際航空連盟(FAI)よりルイ・ブレリオ メダルを受賞している。なお、彼が挑戦し未完に終わったパリ―東京間の懸賞飛行はその後も4回に亘りフランスの飛行家達によって試みられたがことごとく失敗に終わり、彼の再挑戦の望みもフランス航空局が計画取りやめを決定し、また第2次世界大戦勃発もあり実現出来ずに終わった。1974年没。コードローンシムーン機は、1934年に初飛行。エンジンの耐久性に優れた4座ツーリング機として大成功をおさめ多くの飛行家達にも愛され、エル・ブルー(フランス航空郵便会社)の郵便機としても活躍した。また、サン=テクジュベリのフランスエアロクラブが催したパリ―サイゴン間の懸賞飛行に使用された事でも知られている(この飛行もサハラ砂漠で遭難し挫折した)。第2次大戦中はフランス空軍で連絡機として使用され、各型で516機が製造された。木製翼胴体で一部は布張り製。諸元は以下のとおり。
全長9.1m, 全福10.4m 最大離陸重量1380Kg、
エンジンはルノー・ベンガル、6気筒220HP、最大速度300Km/h,
巡航速度220Km/h, 航続距離は1500Km
5.赤い翼プロジェクト
パリ―東京を100時間で結ぶという当時の挑戦が中断されたまま未だ達成されていないことを受け、当時果敢に挑戦した飛行家達の夢を実現するという日仏共同のプロジェクトが進行している。これはアンドレ・ジャピー生誕120年、没後50年という記念の年にあわせ、九州山中で遭難したコードローンシムーン機と同型の現存する破損状態にある機体を飛行可能に復元し、パリ―東京間の最終航程で未達成となった佐賀県背振/神崎町―東京間を飛行させるという目的で進められている。具体的な動きとしてパリに本拠を置く“コードローンシムーン復元協会”が主導し、地元ボーク―ル市、航空専門家、産業界などの支援を受けて地元ポントワーズ飛行場で同機の復元作業が行われている。今後のスケジュールは、以下のとおり。
~2024年末 機体の修復完了。
2024年1月の時点でエンジンの修復作業は完了し、別の機体に装着しテスト中。
2025年 フランスの耐空証明取得、試験飛行、パリエアショー2024や、その他のエアショーでの展示とデモフライト。
2026年 日本へ輸送、日本の耐空証明取得、佐賀―東京間飛行(佐賀空港から東京近辺の飛行場を想定)、各地のエアショーでのデモフライトや展示。
このプロジェクト完遂のため、日本では“赤い翼:パリ 東京 実行委員会”が在日フランス大使館の後援、笹川日仏財団など数個の団体から助成、協賛を受けて組織化されて活動している。この実行委員会はコードローンシムーン機の日本における飛行のみに留まらず、文化事業の一環として、以下の事業を計画している。
1.2013.14年に上演した日仏朗読劇“アンドレの翼”再演。
2.日仏航空関係やジャピー救出に関するテーマとした講演会開催
3.日仏航空関係史に関わる写真、図書、記事などの展示会開催
4.放送局とタイアップしたドキュメンタリーフィルムの製作、放映
本プロジェクトは当時、憧れの東洋への飛行に果敢に挑戦した飛行士たちへの“オマージュ”であり、日仏両国の航空を通じた文化交流を益々推進するための更に強い絆作りに貢献することを期待したい。
(参考資料。文献)
クリスチャン ポラック、鈴木真二編 “日仏航空関係史” 東京大学出版会 2019年
外務省外交史料館所蔵“本邦航空運輸関係資料”
池井優著 “三訂 日本外交史概説” 慶應義塾大学出版会 1973年
野沢正編 日本航空機総集 三菱編 中島編 共同出版社 1962年
堀越二郎、奥宮正武著 “零戦” 共同出版社 1952年
山崎明夫編著 “神風” 三樹書房 2005年
写真提供 クリスチャン ポラック氏、荒山彰久氏
著者紹介
吉田正克(よしだ・まさかつ)
幼年期の戦争体験で得た航空機への興味が原点となり、我が国民間航空の草分けである坂東舜一氏に師事し航空と実業を学んだ。現在は自身の国内外での豊富なビジネス経験とスポーツ航空の教育実践などで得た人脈を活用し、国際政治経済の視点から軍事商業スポーツ航空の研究をしている。
航空ジャーナリスト協会会員
慶應義塾體育會航空部最高顧問
「飛べ!赤い翼」(1991年発行)は、ジャピーが墜落した際、救助した背振の人々や手当をした牛島医師を直接訪ね、五年かけてまとめたノンフィクションです。地元の人はもちろん、飛行機ジャーナリストの井田氏やNHKチーフアナウンサーの川上裕之氏にもお会いして史実を確認しました。ジャピーのその後を確かめるため、外交官のシムさんを通して当時のジャピーが掲載されている新聞を全て取り寄せ、和訳を依頼しました。漸く上梓した本を当時新日鉄常務取締役で頻繁に渡欧していた弟が、仏側に謹呈しました。遭難六十周年には、背振とボークールで姉妹締結が結ばれ、千秋も弟も招待されました。その後、交流は停滞していましたが、遭難八十年を記念して 「飛べ!赤い翼」は仏訳され、地元のサントルA小学校の副読本になりました。権藤家が訪ねると日本の旗を振って歓迎してくださいました。ボークールには背振ロードや神埼ロータリーがあり、中央には日本庭園があり、日本の旗が常時掲揚されています。
四年前(2018年)、権藤家がボークールを訪ねた時は、「赤い翼(コードローンシムーン機)」がほとんど復元されていました。「出来上がったら必ずお乗せしますよ」と復元協会のステファン・ランテール氏や、ジャピーの縁戚ニコラ・ジャピー氏に優しく声をかけていただきました。しかし、ジャピーの夢であった「仏日を飛ぶ」実現には三つの困難があります。①コロナ禍で、国と国との行き来やイベント等が開催できないこと、②航空法が変わり、軽量の飛行機は、決められた高度と区間しか飛べないこと、③応援していただく皆さんの存在 です。アンドレ・ジャピー氏は、自分の失敗を生かして日本の神風号の飛行士二名(飯沼・塚越)に乱気流等を切り抜けるこつを伝えています。
その助言のおかげで、日本の二人は、日仏の飛行に成功したのです。
日仏をつなぐ88年間の希望をぜひ実現したいものです。
権藤千秋 長女順子
追記 11月19日は、ジャピー遭難の日ですので、毎年、前後の土日に背振の碑まで行ってジャピーさんと話すのが我が家の習慣です。今年は、雨模様の天気でしたが我が家の椿を手折って持って行きました。ちょうど遭難の日のように視界が悪かったので、追体験できました。 2022年11月24日 権藤順子
2012年6月9日、青木裕子さんと共にボークールへ行く。当時のボークール市長、現在国会議員で日仏議員連盟副会長のセドリック・ペラン氏と3人で
1973年10月1日、名古屋で、私の日本生活が始まった。もちろん、ヨーロッパの国ではないが、それでも人々が働き、日常生活の困難に直面している国であることに変わりはなかった。
私は、当時唯一の地下鉄東山線に近い本山で、鉄の階段のある小さな2階建6部屋のワンルームマンションて暮らしていました。入って右側にはシンクとガスコンロ、左側にはドアと洋服ダンスがありました。好奇心いっぱいでドアを開けると、奥行き70センチほどの黒っぽい木製の四角い小さな「お風呂」(若かった私でも、ちょっと高かった!)、その右にトイレがありました。
実際、当時はマット(畳)の上で生活し、浴槽やトイレなどが低いためか、一般の人と比べて背が高いように感じていたんです。
ゆで卵を作ろうとして、塩を買っていないことに気づきました。壁の向こう側で夕飯の支度をしている隣人の声が聞こえてきたので、「ちょっと頂戴」とお願いすることにした。彼女はドアを開け、私の姿に驚きながらも歓迎し、口元に温かい笑みを浮かべ、とても興味を持ってくれた。私は片言、片言の日本語を試したが駄目だった。それでも何とか理解しあい、その日から友達になった。 (一人暮らしで、必要なものが少なく、屋根があって、食べるものがあって、健康であれば、幸せだったのです)。
数日後、ダンボールの上でひざまづいてラーメンを食べていると、彼女が訪ねてきた。彼女は私の即席のテーブルにとても驚き、翌日、仕事帰りに小さな折りたたみ式のコーヒーテーブルを買ってきてくれたので、お礼に、彼女は知らなかったが好きだったクレープシュゼットを食べに誘ったのである。
彼女こそが東京のテレビ局NHKの名古屋支局にプレゼンターとして勤務していた青木裕子(あおきゆうこ)さん。
A fortuitous encounter
Since the first of October1973, my Japanese life began in Nagoya. Of course, it wasn't an European country but nevertheless, just a country where people worked and faced the difficulties of everyday life.
I lived in Motoyama, near the Higashiyama subway line (the only one at that time), in a two-storey building, with an iron staircase, containing six one-room dwellings. Upon entering, I saw a room with on the right a sink and a (camping) gas stove and on the left a door and a closet. Full of curiosity, I opened the door and found a small dark bathtub made of wood, square and about 70 cm deep, (I was young but I found it a bit high!), and on the right a toilet.
In fact at the time, the people around me felt small but maybe they needed to be because they were living on mats and the furniture, toilet etc...were low.
I started to boil an egg when I realized I hadn't bought any salt! I could hear my neighbour next door, preparing her own meal and decided to ask her if she could give me some salt. When she opened her door, she was surprised but welcoming, open-hearted and very interested. We couldn't speak each other's language but it didn't matter, we communicated and from that day on we formed a friendship.
As I was living alone and had few needs, I didn’t think anything of kneeling on the floor or using a cardboard box as a table, eating lamen (noodle in a clear soup), but when she visited me the first time, she was so astonished, that the next day while she was coming back from work, she bought and gave me a low very practical folding table. To thank her, I made some suzette pancakes and she liked them.
She was working for Tokyo's network TV, NHK at Nagoya's branch as an announcer, her name is AOKI YUKO.
Une rencontre fortuite
Depuis le premier octobre 1973 à Nagoya, ma vie à la japonaise a commencé. Bien sûr, ce n'était pas un pays européen mais néamoins juste un pays où les gens travaillent et font face aux difficultés de la vie quotidienne.
J'habitais à Motoyama, près de la ligne de métro Higashiyama (la seule à l'époque), dans un petit immeuble de deux étages avec un escalier en fer, contenant six logements d'une pièce. En entrant, sur la droite il y avait un évier et un réchaud à gaz et à gauche une porte et un placard. Pleine de curiosité, j'ai ouvert la porte et trouvé une petite "baignoire" sombre, en bois, carrée et d'environ 70 cm de profondeur (j'étais jeune, mais c'était un peu haut!) et à droite les toilettes.
En fait à l'époque j'avais l'impression d'être grande par rapport à la population, peut-être parce qu'ils vivaient sur des nattes (tatamis) et que les meubes, toilettes et autres étaient bas.
Je commençais à bouillir un oeuf lorsque j'ai réalisé que j' avais oublier d' ache-té du sel. J'entendais ma voisine de l'autre côté du mur qui préparait également son repas du soir, et décidais de lui demander si elle pouvait m'en donner. Elle ouvrit sa porte, surprise de me voir, mais accueillante, un sourire chaleureux aux lèvres et très intéressée. J'ai essayé une ou deux langues mais sans succès; malgré cela nous avons quand même réussi à nous comprendre et depuis ce jour là nous sommes devenues des amies.
Je vivais seule, avec peu de besoins, tant que j'avais un toit, à manger, et étais en bonne santé, j'étais contente.
Quelques jours plus tard, alors que j'étais agenouillée en train de manger un "lamen", (des nouilles dans un consommé), posé sur une boîte en carton, elle est venue me rendre visite. Elle a été ébahie en voyant ma table improvisée si bien que le lendemain, en rentrant de son travail, elle m'a acheté une petite table basse, pliante et pour la remercier je l'ai invitée à manger des crêpes Suzette qu'elle ne connaissait pas, mais qu'elle a aimé.
Elle travaillait pour la chaîne de télévision de Tokyo, NHK, à la succursale de Nagoya, comme présentatrice, son nom est YUKO AOKI
2012年6月9日、朗読劇『アンドレの翼』を書くために、ジャピー家の一族である木村ジェニーと共にボークールへ取材旅行に行く。市のシンボル、鉄のオブジェの前で当時のボークール市長、現在国会議員で日仏議員連盟副会長のセドリック・ペラン氏(右の男性)と3人で
昭和48年というから今から49年前、NHKの新人アナウンサーだった私が最初に勤めたのは名古屋放送局で、たしか初夏のころだった。私はアパートを借りてひとり暮らしを始めたばかり。ほぼ時を同じくして隣の部屋に越してきたのが木村ジェニーさんだった。ジェニーさんは日本人の男性と結婚しようと思って日本にやってきたのだが、今のご主人木村氏のご両親は青い目のフィアンセにびっくりするばかり、結婚に至ったのが半年後となった。その間私とジェニーさんは言葉が通じないながらも、楽しい時間を共に過ごすことになる。
その友情は私が東京に転勤してからもずっと続いて、私の定年退職の時期が近づいてきたある日、ジェニーさんから電話がかかってきて、とっておきの話だと言って打ち明けてくれた。自分よりひとつかふたつ世代が前の親戚に、日本にやってきた飛行機乗りがいるようだ。自分は子どもの頃ちょっと聞いただけで今の今まで忘れていたが、夫が調べてみるとアンドレ・ジャピーという人物らしい。パリー東京を100時間以内で飛ぶ懸賞飛行に参加して、あと一歩というところで佐賀県と福岡県の境にある脊振山に落っこちた。佐賀側、背振(現神埼市)の村人総出の救出で一命をとりとめ、その後日本とフランスの航空関連で、大きな架け橋になったらしい。裕子さんは話をするのが仕事だから、これから二人でヨーロッパに行ってアンドレ・ジャピーのことを調べて、裕子さんはそれを台本に書いて、みんなに読んできかせるといい、ということなのだ。寝耳に水とはこのこと、その時はほんとうに驚いた。
かくして私とジェニーさんは2012年6月、フランスのボークールにアンドレ・ジャピーのことを調べに出かけることになった、首尾よく下調べができたら台本を書こうと誓い合って。最初に取材に訪れたのがジャピー家の本拠地であるボークールで、あたたかく出迎えてくれたのがまだ30歳代だったセドリック・ペラン市長。いまは国会議員となって、日仏議員連盟の副会長だ。ジェニーさんと私は若いペラン市長に案内してもらってアンドレ・ジャピーの育ったボークールをくまなく歩き回った。
ボークールはジャピー家の城下町ともいえるところで、そもそもフランスは200ばかりの古い家系が連綿と続いていてフランスの経済や政治、文化をいまだに支えているのだといわれるが、そのひとつがジャピー家であり、ボークールはかつては機械工業で盛んな町だった。タイプライターやいろいろな工業製品が世界を席巻した時代もある。全盛期には13のジャピー一族のお城を含め、大富豪のジャピー一族が町のためにありとあらゆる文化施設を作ったそうで、たいへん賑やかな都市だったそうだ。ジェニーさんのお母さんはそのお城のひとつで育った。アンドレ・ジャピーも13のうちの別のお城のひとつで育った。なんだか夢のような話。
ジェニーさんと私はその後調査をパリに移して、アンドレ・ジャピーのお墓に行ったり、教会を訪ねたりして日本に帰り、首尾よく「アンドレの翼」という台本を完成させた。それを2013年9月、パリの日本文化会館とボークールのジョルジュブラッサンス会館で上演しようと企てたのだが、資金が伴わない。そこで笹川日仏財団に支援を申し込んだのだが、まったく実績のない我々に助成金を出してくれるなんて有りえないと諦めかけていたところ、それに目を付けたのが渡辺昌俊さんだったのだ。渡辺さんは笹川日仏財団の日本側の理事で、ニコラ・ジャピーとは昔から懇意の仲、この台本の主人公がニコラ・ジャピーの大叔父であることに驚いたそうだ。つまり、ジェニーさんの母方のひいおじいさんがアンドレ・ジャピーの兄弟で、ニコラ・ジャピーもそこから来ている。
渡辺さんにめぐりあったおかげで「アンドレの翼」のフランス公演旅行は大成功を収め、フランスだけで終わらせるのは勿体無いという友人たちの声で2014年は日本国内11ヶ所で凱旋公演をおこなった。どこも満席の大盛況で特にアンドレ・ジャピーが救出されてその後4カ月間入院していた九州大学医学部の「百年記念講堂」で上演された時は医学部の学長が「この講堂にこんなに人が入ったのを初めて見た」と驚いたくらい、その年は日本各地で話題になったのだが、その後この話は神崎市とボークールの姉妹都市交流として受け継がれ、ジェニーさんと私の個人的ストーリーから離れて未来に続いて行くものと思っていた矢先、飛行機が復元されて目の前に現れるのが現実味をおびてきて、またまた、上演のチャンスがありそうでわくわくしている。二人の出会いの不思議が単なる偶然とは思えなくなっている。つくづくアンドレ・ジャピーと背振の村の人たちの残したものの大きさに驚いている。
長い銀行員生活が終わったとき取引先のフランス企業から頼まれて同社の顧問を引き受けた。その会社の副社長の一人が ニ コラ・ジャピーだった。彼とは 普段はメールや電話でやりとりしていたが大事な商談になると日本にやって来た。20年以上の昔の話である。或る日仕事の合間に浅草の浅草寺の境内を散策していた時、突然雲一つない青空 を一機の飛行機が飛び去って行った。その時彼が話 し 始めたのが大叔父アンドレ・ジャピーの遭難物語であった。
当時は特別の感慨も覚えず聞き流していたが、それから10年ほど経ったころ笹川日仏財団の理事会に朗読劇“アンドレの翼”という案件が上程されたとき 、申請書を一読して ニ コラの話を思い出し、この奇遇を直ちに彼に知らせた。“アンドレの翼”の主宰者は赤い翼実行委員会の副会長 青木裕子さん であるが、 アンドレ・ジャピーに纏わる日仏友情物語を朗読舞台に仕立て 2013年にフランスのパリとボークールで、2014年には神埼市はじめ日本各地で上演するという企画であ った 。
ニコラは公演スケジュールに合わせて、ボークールと神埼にはぜひ行き たいので手助けして欲しいと言ってきた。私もその気になって2013年にボークールに行く準備をしていたが、その頃健康が すぐれず、ドクターストップがかかりドタキャンしてしまった。2014年には偶々 日本の外務省により日仏姉妹都市会議が開催され、ボークール市長一行も それに 参加 、会議後、 神埼市を訪問 ことにな ったが 、 それに合わせてニ コラも夫人とご子息同伴 で来日することになった。
アンドレの遭難後、80年近く経って初めて墜落現場を肉親が訪れたのである。背振山頂に近い急斜面の雑木の中に石碑が立てられ花も供えてあったが、その 前にニコラがひざまずき祈る姿は感動的で私には忘れられない光景となった。 一方、青木さんの ”アンドレの翼“の公演はジャピー家とボークール市長ご一行の参加で大いに盛り上がったことは言うまでもない。 また神埼市の 歓迎は熱烈で両市長の会談は 弾み、市民有志の案内で地元小学校を訪問、そこで将来の交流を話し合った。 アンドレが九死に一生を得て祖国に戻れたのは地元の救助の賜物であり ニ コラの感謝の念 が 一気に高まった ことは想像に難くない 。
帰国後、ニコラからの御礼のメールの中に、フランスでアンドレ・ジャピー機と同型の赤い翼のコードロン・シムーンが復元されつつあり、完成したら、日本に飛行させ背振の人々にその雄姿を見せたいと書いてあった。2014年11月のことである。(写真は左がニコラ・ジャピー、中央がステファン・ランテール(コードロン・シムーン復元協会会長)、右から2人目が渡辺です)
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[https://twitter.com/SORAHAKU324/status/1681942580043599877]