ジャピーとシムーン機

世紀を超えて夢の実現へ!

「赤い翼:バリ―東京」プロジェクト

鈴木 明治

 1936年(昭和11年)11月、フランスの飛行家アンドレ・ジャピーは新鋭機のコードロン・シムーン機によりパリ~東京の100時間懸賞飛行に挑戦、ゴール目前にして佐賀県の背振山に墜落し、地元民に救出され九死に一生を得ました。ジャピーは退院後、朝日新聞社(東京)を訪問、翌年4月に東京~ロンドン飛行を控えた朝日新聞・神風号の飯沼正明、塚越賢爾飛行士に会い、自らの体験を踏まえてアドバイスするなど、日仏航空交流を深めた人物として知られています。

 「赤い翼」プロジェクトは、フランス側が同型のコードロン・シムーン機を復元し、ジャピーがやり残した背振山(佐賀空港)~東京を飛ばす計画です。世紀を超えた夢の実現に向けて、日本側でも2021年実行委員会が発足、昨年4月にフランス側関係者が来日、記者会見して計画概要を発表しました。


 現時点の計画では、

 2024年  フランスで復元機の完成、耐空証明申請

 2025年  フランスで復元機のテスト飛行、デモ飛行

 2026年  復元機を日本に輸送、記念フライト

 というスケジュールで動いています。当初はパリ五輪の開催される今年、日本国内での飛行を計画していたのですが、コロナ禍で復元作業が遅れ、ジャピー機遭難から90年後の2026年を目指すことになりました。


 ■「空の英雄」と「空のリムジン」
 アンドレ・ジャピーは1904年フランス東部のボークール市生まれ。ジャピー家は18世紀に時計工場を創立し、タイプライターなどを手広く製造する地元の名家で、父親はプジョー自動車の大株主でした。アンドレも同社で技師として働き、28歳でパイロットの免許を取得。その後は数々の長距離飛行に挑戦し、バリ~サイゴンを87時間30分で飛び当時の新記録を樹立、「空の英雄」と呼ばれていました。パリ~東京フライト時は32歳。第二次大戦後、タヒチに移住し、1974年に70歳で亡くなりました。

 コードロン社は1909年、コードロン兄弟が設立した航空機メーカー。1933年、ルノーに買収され、コードローン・ルノー社となります。天才的な航空力学者、マルセル・リファールによって1934年に設計・構想されたシムーン機は、ラティエ製可変ピッチプロペラ、新しい無線誘導システム、ルノー製直列空冷式6気筒エンジンなど、当時の最新技術を駆使して開発された名機です。シムーンは、砂漠の熱風の意味です。

 「空のリムジン」と呼ばれ、当時最高のパイロットたちが操縦しました。「星の王子さま」の著者として有名なサン・テグジュペリは2機所有しており、ジャピーが記録を出したパリ~サイゴン懸賞飛行にシムーン機で挑戦、航路を外れてリビア砂漠に墜落した体験が、「星の王子さま」誕生につながったことはよく知られています。

 シムーン機は約500機生産されましたが、現存するのは2機のみで、そのうちの1機はパリのル・ブルジェ航空宇宙博物館に常設展示されています。もう1機はコードロン・シムーン復元協会が所有し、パリ郊外のポントワーズ飛行場で復元作業中です。いまや伝説的な航空機といえるでしょう。

懸賞飛行の発表を伝える東京朝日新聞(1936年11月15日付)

■航空大国フランスと懸賞飛行

 フランスは現在も航空産業が盛んですが、1920~30年代は文字通り航空大国でした。航空の歴史を振り返ると、熱気球(モンゴルフィエ兄弟、1783年)も飛行船(アンリ・ジファール、1852年)も、最初に開発したのはフランス人です。動力飛行機はライト兄弟に先を越されたとはいえ、当時の航空界をけん引する存在でした。

 第一次世界大戦(1914~18年)では航空戦力が投入され、フランスでは大戦中に5万1000機を生産したとの記録が残っています。大戦後も新鋭機の開発に取り組み、新しい航路の開発にもしのぎを削りました。

 ジャピーやサン・テグジュペリをはじめ、多くの挑戦者たちが、「より速く」「より遠くへ」と新記録を目指し、アジアを目指した長距離飛行も試みられました。男性だけでなく、日本にも飛来したマリーズ・イルズのような女性飛行家の活躍も目立ちました。バスコ・ダ・ガマ、コロンブス、マゼランらが活躍した15~17世紀の大航海時代に倣って、1920~30年代を大航空時代と呼ぶ人もいます。

 そうした中で、フランス航空省は1936年、パリ~東京100時間で飛べたものに1等30万フラン、2等10万フラン、3等5万フラン(3名)の総額55万フランの懸賞飛行を発表しました。現在の価値に換算すると、数億円に相当します。バリ~東京懸賞飛行には、5カ月間で5機のシムーン機が挑戦、その先頭を切ったのがジャピーです(5機はいずれも失敗、ジャピーとマルセル・ドレ―が日本に到達。ドレ―は2度目の挑戦で高知に不時着した)。

ジャピー機の航路図

ジャピー機の快翔を伝える東京朝日新聞(1936年11月19日付)

■単独飛行での挑戦

 ジャピー機は、幅10.4m、全長8.7m、ルノー220馬力、時速300km、航続距離1500km、流線型のスマートな機体で、翼は木製、胴体は木と金属。燃料を節約するため、4座席のうち3座席を取り外し、単独飛行での挑戦でした。当時、32歳。機体は、赤く塗られました。

 11月15日深夜、ル・ブルジェ空港を出発、ダマスカス、カラチ、アラハバード、ハノイで給油し、香港に18日夕方到着しました。ここまでで56時間、残りは3000km、順調に飛べば10時間の距離です。しかし、台風接近により天候が悪化し、香港に一泊して19日朝飛び立ちました。日本の新聞では連日大きく報道され、羽田空港には徹夜でジャピー機の到着を待つ人たちがいたそうです。

 ジャピー機は悪天候に阻まれて燃料不足になり、福岡県の雁ノ巣飛行場に向かいましたが、19日午後4時すぎ、佐賀県の背振山(1055m)に墜落しました。炭焼きの人たちが現場に向かい、事故機を発見、操縦席からジャピーを救出しました。地元の医師が応急手当をし、翌日、福岡市の九大附属病院に移送されました。左足大腿部骨折で3カ月の重傷でした。

 ジャピー機の遭難は当時の大ニュースで、日本では号外が出ました。入院中のジャピーの動向も詳しく報じられ、ジャピーは「空の英雄」として人気者でした。退院後に墜落現場の佐賀県背振村(当時)を訪れ、大勢の子どもたちや村人たちと一緒に写った写真が、その人気ぶりを今に伝えています。 

背振山中で大破したジャピー機の機体

事故を詳報する東京朝日新聞(1936年11月20日付)

ジャピーを搬送する消防団員

入院中のジャピー

退院後、背振村を再訪し、村人から大歓迎を受けるジャピー(中央)

 ■ジャピーと神風号

 日本ではこの頃、英国王・ジョージ6世の戴冠式に併せて、朝日新聞社が神風号と名付けた国産機で東京~ロンドンを飛ばす計画を着々と進めていました。朝日新聞を創業した村山龍平は早くから飛行機に注目し、さまざまな航空事業・イベントを手がけてきた人です。三菱重工業が開発した純国産機による訪欧飛行計画には、航空先進国に追いつきたいという悲願が込められていました。

 ジャピーも神風号の挑戦に関心を寄せ、懸賞飛行で使用した血染めの航空地図を朝日新聞航空部に提供し、「空の騎士道」と報じられました。ジャピーの地図は、地図を張り合わせ、飛行コースの距離、時間、鉄道道路など目印を記入したもので、航空部は飛行コースについて「ジャピーの好意に報いるべく更に検討する」としています。神風号の出発1か月前にコースを一部修正したのは、ジャピーのアドバイスのお陰かもしれません。

 ジャピーは事故翌年の3月に退院し、上京して朝日新聞社を訪ね、神風号の飯沼正明(26)、塚越賢爾(38)飛行士と会い、実践的なアドバイスをしました。当時の記事によると、「カルカッタ空港はヤシの木で照明が暗く、夜間飛行を辞めた方がよい」「無線は使えるか」などのやり取りが写真付きで報じられています。夜には、築地の料亭、新喜楽で盛大な歓迎会が催されました。

ジャピー(右端)の話を真剣に聞く塚越、飯沼飛行士(左端から)

 神風号は4月6日出発、10日未明ロンドン・クロイドン空港に到着し、94時間17分56秒の世界記録を達成しました。ジャピーは帰国の船上で神風号の快挙を知り、朝日新聞紙面にコメントを寄せました。「世界航空史の未曽有の快挙、事故で日本人の温かい同情を体験した私の喜び」「飛行機製作に関わる労働者、技術者の優越性」。技術者出身のジャピーらしいコメントです。

 神風号は途中各地で歓迎を受けましたが、バリ上空では18機の仏陸軍機が出迎え、ル・ブルジェ空港にはジャピーの母親も駆けつけました。バリ特派員電によれば、空港の一角にフランス航空省主催の歓迎会場が設けられ、大勢の人が詰めかけた。最も劇的な場面は、飯沼飛行士とジャピーのご母堂との対面であった。ご母堂が、ジャピーが日本でお世話になったお礼を述べ、「神風号のパリ再訪の折には、自宅で晩餐をともにしましょう」と伝えると、飯沼飛行士が「ご令息には東京で有益なご注意を賜り、それがどんなに役立ったか知れません」と答えたと伝えています。

 神風号はロンドンからの帰路にバリを再訪、飯沼、塚越飛行士は凱旋門近くにあるジャピーの母親宅に招かれました。帰国したジャピーも加わり、「三鳥人水いらず」の晩さん会と報じられました(写真)。飯沼飛行士は後に「ジャピーのお母さんは実に質素で親しみやすく、日本の小母さんにあった気がした」「ジャピー氏はどちらかというとお坊ちゃんで、『大きなお母さん児』といった感じの人だ」と親しみを込めて回想しています。飯沼飛行士は長野県安曇野出身で、生家は記念館になっています。

 神風号の快挙から3か月後の1937(昭和12)年7月、盧溝橋事件が起き、日中戦争が本格化します。欧州では2年後の1939年9月、第二次世界大戦が勃発、翌年にフランスはドイツに占領されます。戦火と混乱の中で、ジャピーの挑戦や飯沼らとの出会いもいつしか忘れられていきました。

ジャピーの母親宅で、左端から塚越、飯沼、ジャピー

ジャピー母宅での晩さん会の模様を伝える東京朝日新聞(1937年4月22日付)

■空の日仏交流

 忘れられた記憶が再び注目されるようになったのは、ジャピー機遭難から60年後の1996年、ジャピーの生地・ボークールと遭難現場のある佐賀県背振村(現・神埼市)が友好姉妹都市協定を結んだことによります。きっかけとなったのは、佐賀在住の童話作家・権藤千秋さんの「飛べ! 赤い翼」(小峰書店)の出版です。ジャピーの挑戦を知った権藤さんが関係者に取材してまとめた小学生向けのノンフィクションで、のちに仏訳されてボークールの児童にも配布されました。両市では、ジャピーの挑戦を顕彰し、特に子供たちを対象とした様々な取り組みが続いています。

 さらに軽井沢朗読館の青木裕子さん(元NHKアナウンサー)が、長年の友人であるジャピーの親族(木村ジェニーさん)と一緒に朗読劇「アンドレの翼」を制作、2013年にパリとボークールで上演し、大きな反響を集めました。翌年には、神埼市など全国11か所で連続公演され、これに併せてボークール市長やジャピーの兄の孫にあたるニコラ・ジャピーさんらが来日、神埼市で交流を深めました。2016年には、高樹のぶ子さんの「オライオン飛行」(講談社)も刊行されました。

姉妹都市提携を伝える朝日新聞佐賀県版(1996年9月2日付)

朗読劇「アンドレの翼」パンフレット

 一方、フランスでは2009年、コードロン・シムーン復元協会(ステファン・ランテール会長)が設立されました。パリ郊外のポントワーズ飛行場を拠点にしてこれまでに5機のヴィンテージ航空機を復元・運用し、アフリカで見つかったシムーン機を復元中です。当時の部品を集めて、できるだけ忠実に復元していますが、予定より2年遅れています。親族のニコラ・ジャピーさんが副会長を務め、復元した機体を日本に運び、佐賀から東京まで飛ばして、未完に終わったジャピーの夢を完結させたいと言います 

 日本側でも2021年11月に「赤い翼:パリ―東京」実行委員会が発足。鈴木真二会長は東大名誉教授(航空工学)、渡辺昌俊事務局長は元銀行員で笹川日仏財団理事、仕事を通じてニコラ・ジャピーさんと知り合い、日仏合同で計画を進めてきました。青木さんは副会長、高樹のぶ子さんは実行委員として参加しています。

 機体の復元が予定通りに進むのか、日本での飛行許可が下りるのかなど、計画実現までのハードルは幾つもあります。復元費用はフランス側が負担していますが、国内での機体運航や関連イベントには費用もかかります。実行委員会では今後、クラウドファンディングを計画中です。皆様のご支援を宜しくお願いします。

 

※空の日仏関係史 ライト兄弟の有人動力飛行による初飛行から6年後の1909年(明治42年)、政府の臨時軍用気球研究会が発足、徳川好敏、日野熊蔵大尉をフランスに派遣し、航空技術を習得させた。翌年、代々木練兵場(現在の代々木公園)で、徳川大尉がフランス機から輸入したアンリ・ファルマン機で、日野大尉はドイツ機で初飛行に成功した。第一次世界大戦後の1919年、フランス政府は日本の求めに応じてジャック・フォール大佐を団長とするフランス航空教育団を日本に派遣し、所沢、各務原など全国8か所で教育指導した。フランス機のライセンス生産を認めたことも、日本の航空産業の育成に大きく貢献した。

(元朝日新聞航空部長)

2024.3


ポントワーズ飛行場で復元作業中のシムーン機